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いじめを受けたあなたへ

いじめを受けた経験は、その後の人生に影を落とします。いじめとその影響への聖書的な対処法をお伝えします。

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テイラー・パーキンス

憎しみ、周囲から嘲笑。怒りに満ちた視線、心ない言葉…。今でもその記憶がよみがえります。いじめの渦中で、いかに孤立し、恐れを抱き、当惑したことでしょう。自分を責め、自傷に走り、心に無数の傷が残ります。自分が壊れ、自分がダメな存在だとしか感じられなくなります。

あなたもいじめの後遺症に束縛され、苦しんでいませんか。不安、恐怖、自己嫌悪、自傷、精神的苦痛、うつ、絶望、孤立……といった心の苦しみと闘っていないでしょうか。

いじめ・ハラスメントの現実

この社会では、いじめはごく普通のこととして捉えられています。昨日まで仲が良かった友だちが、ある日突然、豹変します。あなたを無視し、仲間外にすることもあるのです。ソーシャル・メディアから、心ないメッセージが届きます。私の苦しむ姿を見て、影でクスクスと笑う……。とても過酷な体験です。

上下関係を利用したいじめもあります。権力を利用したパワー・ハラスメント。学校の先生、部活の顧問、スポーツコーチ。上司、先輩……。学術界でのアカディック・ハラスメント。アルコール・ハラスメント。セクシャル・ハラスメント……。上からの圧倒的な権力で、人をいじめる行為はあってはならないことです。

何よりも、家族からのいじめ、虐待を受けた方もいるかもしれせん。心の拠り所、一番信頼できる人間関係から受けた心の傷ほど、ダメージが大きいことはありません。

私の体験

私も中学生のときに、陰湿ないじめに遭いました。小学生時代、私は恵まれた環境で育ちました。その頃、いじめなど聞いたこともありませんでした。私の欠点が、いじめの原因になり得ることなど、考えられませんでした。

そんな私が中学に入学して、いじめの標的にされたのです。私の期待と自尊心が崩れ去り、自分のアイデンティティも失われました。

人は周わりの評価で、自分の存在価値が見出します。いじめる側は、私の悪いところばかりを指摘しました。私の欠点を理由に、いじめられたのです。

「いじめられる側も悪い?」

「子どもは残酷だ」と社会はいじめを正当化します。心理カウンセラーも「思春期は難しい年頃だ」と説明します。しかし、いじめを大人への通過儀礼と片づけるのは、あまりにも浅はかです。

容姿が人と違っている。太っている、おしゃべり、うざい、邪魔だ、鈍臭い。周囲ができることを、自分だけできない……。そんな些細な理由で、いじめの対象になりました。

いじめる側は、いじめられる側にも原因があると言います。いじめられる側の弱点や間違えを正してあげるために、痛い目にあわせたと、いじめた側は主張します。

まるでいじめられる側が、悪いような言い回しです。しかしそれは、いじめる側の単なる自己弁護、自己正当化に過ぎません。彼らの身勝手な言い訳を受け入れてはいけません。

「お前が悪い」と言われると、いじめられる私たちも「自分が悪いから」「私が間違えたから」「一人前にできない自分が悪いんだ…」と自分を責めるようになります。集団から責められると、まるで自分の責任であるかのように感じるです。反論もできなくなります。

「私が悪いんだ」と自分を責めることで、「これ以上、人に迷惑を掛けたくない」と萎縮します。自分が悪い。自分が何とかすれば済む。こう考え出すと、人にも相談できなくなります。

今も感じる恐怖

私の場合は、クラスの皆から無視され、口をきいてもらえませんでした。音楽の授業で、ペアーになって、先生の前で歌唱の試験を受けることになりました。私はずっと「だれとペアーになるべきか」心の中で必死に祈りました。結局、先生は余った私に配慮して、授業後、一人で試験を受けさせてくれました。

皆が仲良く話す中で、だれも話掛けてくれないのは、つらいものです。授業が始まるギリギリまで、一人トイレに隠れ、先生が来るのと同時に教室に入りました。

SNSで何かメッセージが届くだけで緊張しました。早く、私も返信しなくては……。でも、どう気が利いた返信ができるのか……。家でも緊張の連続でした。

いじめは、過去の不快な記憶だけでは終わりません。いじめられた経験は、現在進行形の現実です。いつまた人から嫌な思いをされるのか、わからない。いつ人は豹変するのか、自分がまたいじめの対象にされるのではないか…という恐怖は、常に付きまといます。今でも人間関係が不安になります。

今でも人と話すときは、緊張します。かつて自分の容姿をバカにされた経験から、鏡を見るのも嫌になります。いじめられるのは、自分の容姿に原因があるのだと、自分を攻撃するようになりました。いじめの影響は非常に根深いものです。私はその後、何年もこの否定的な思いを胸に押し込めてきました。

私はその後、不登校になり、自室に引きこもるようになりました。しかし、いつも心の中の「悪のささやき」から、逃げることはできませんでした。自分を攻撃する、私自身から逃げることはできなかったのです。あれからいくら時間が経過しても、いじめられた過去の傷を背負って生きていたのです。

ゆるせない心

それ以上に、相手をゆるせない気持ちと恨みの心が、心に刻み込まれていました。私の全存在は、憎しみで満ちていたのです。

私は自分自身を憎んでいました。同時に、私をいじめた同級生へ憎しみとも戦っていました。助けてくれなかった先生にも恨む心を持っていました。いじめに気づいてくれなかった、家族にも反発するようになります。また、知らない人や会ったことのない人まで、無性に憎しみが湧いてきました。人間不信になりました。

不安と過去への恨みで、頭がいっぱいでした。今、目の前にある現実も、目に入りませんでした。私の闇はそれほど大きく、将来に光を見出せないほどでした。自信も失い、自尊心を持つこともできませんでした。

回復への道

フリースクールに通うようになったある日、自室でYouTubeを観ていました。すると、キリスト教の10分番組に行き当たりました。講師の牧師は、敵をゆるし、憎しみを捨てることの大切さを話していました。この人はなんて変なことを言うんだろうと思いました。

「敵をゆるし、憎しみを捨てる…。」そんなことは、まったくバカげていると思いました。でも、私はすぐにスマホでネット検索していました。本当にそんな箇所が聖書にあるのか……。検索をするうちに、聖書の中のある箇所に出会いました。

弟子の一人が、イエスに興味深い質問をしていました。「兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回ゆるすべきでしょうか。七回まででしょうか。」※1

イエスの答えに、私は驚かされました。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。」※2

すなわち「無限に人をゆるすように」とイエスは語っているのです。私は驚きました。私には無理だと思いました。

翌日、家族と車に乗っていました。車内には、地元のラジオ局の音楽番組が流れていました。ふと顔を上げると、ラジオの周波数が目に飛び込んできました。周波数はなんと「7×70」と表示されていたのです。神が昨日開いた聖書の話を、リマインドしているようでした。

その夜、家に帰って、何年かぶりに神に祈ってみました。最初は、少し憤りを感じました。私もクリスチャンの両親のもとで育ちました。しかしこの何年間か、神と距離を置いて生きてきました。

そんな私に、長い沈黙の後、神が初めて語りかけたのが「ゆるしなさい!?」とは…。「ふざけるな……」と思いました。

いじめの被害者は私です。「私をいじめて、私を傷つけた相手をゆるす?」「私をいじめた人たちは、私に謝罪もしていなのに……?」「なぜ、そんな彼らを、私がゆるさなければならないの?」「私には当然、復讐する権利はあるはずなのに……。」「この私が怒りと復讐する権利を手放す?」 絶対に、不可能なことでした。

感情は伴いませんでした

しかし神にとって不可能なことはありません。不可能を可能にするのが、神のわざです。その夜、なぜか私をいじめた人々をゆるすプロセスを、試しにみようと思いました。ゆるしたいという感情は正直、まったくありません。でも、神がそう言うから、試しにやってみようと決心しました。

ただ動画で言われたまま、私をいじめた人の名前と、私を傷つけた行為を一つずつ、紙に書き出してみました。感情が伴わない、ただの苦痛な「作業」でした。

しかし書き出す過程の中で、神は次第に、私の心に働き始めました。リストを書き終える頃には、怒りや憎しみの感情はなくなっていました。不思議と、彼らをゆるす決心ができたのです。

肩に絡まりつく重い鎖から、解放されました。心が軽くなりました。自分では到底不可能だったゆるしの決断を、私は神の助けですることができたのです。その夜、怒りと憎しみの感情から、私は解放されました。

神はあなたを、憎しみの鎖から解放したいと願っています。それは憎しみ、怒りの感情が、あなたの心を蝕んでいるからです。神は負の感情からあなたを解放したいのです。

後遺症からのいやし

神はあなたの心に関心があります。あなたが、過去に受けたいじめで、心に傷を負っていませんか。人から貼られた、心ないレッテルに縛られ、自分を責めていませんか。

もう手遅れだと、諦めていませんか。心の中の本当の思いを隠してはいませんか。表面的には明るく人と接していても、陰では一人涙していませんか。自傷行為に走る衝動を感じつつ、その痛みを人に話して、助けを求めることに躊躇していませんか。人との関わりを避けていませんか。

私も、同級生からいじめられ、人生の「地獄」を経験しました。何度も泣きました。苦しんで、自分を呪いました。いじめる側が言う「嘘」を信じてきました。本来の自分の姿を忘れるほど、惨めな姿に自分を押し込めてきました。

しかし、ある方を知ったとき、私のすべてが変わりました。今の現実よりも偉大な、その存在を私は知ったのです。その方とはイエス・キリストでした。

イエス・キリスト

人生のどん底で、イエスはあなたを待っています。道ゆく群衆の只中にイエスは立って、あなたを待っているのです。洗面所で自傷行為をしようと刃物を手にしたあなたを、イエスは抱きしめています。心の奥底の痛みを、イエスはいやしてくれるのです。

多くの嘘が光を閉ざし、自分という存在さえ見失った状況でも、イエスはあなたに声をかけてくれます。進むべき道に光をあてて、倒れないように、足元を照らしてくれます。イエスは人生の暗闇の只中で、ご自分を現しているのです。それはイエス自身が人生のどん底を経験したからです。

イエスは、今から2000年前にこの地上に来ました。イエスの人生は貧しく、世間から見向きもされませんでした。人々から顔を背けられ、のけ者にされました。嘲笑され、つばを吐かれました。鞭打たれ、暴力をふるわれました。そして人類史上、一番残酷と言われる刑罰、十字架刑で処刑されました。

両手、両足は十字架に釘付けられ、息を吸うたびに、激痛が全身を襲います。丸裸にされ、死んでいく姿を見て、人々はののしります。しかしイエスは反論せず、自分のいのちを神にささげたのです。イエスは、あなたの痛みと苦しみを、十字架の上で担ったのです。

「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎(とが)のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。」※4

心のいやし

私にとっての心のいやしは、イエスを知ったときに始まりました。そのとき、私にはもはや回復のための力は残っていませんでした。心の暗やみに打ち勝つほど、私は強くはなかったのです。

私の心は、重度の感染症で瀕死の状態でした。何よりも、特効薬が必要だったのです。全身にウイルスが増殖していたので、単に症状を和らげる対処療法ではどうすることもできませんでした。内側のウィルスすべて取り除く、抜本的な治療が必要だったのです。

実際に、私の心のいやしは、内面から起こりました。神が語りかけたその日、私はイエスこそが、私の心を内面からいやす方であることに気がつきました。

イエスの優しい働きかけと助けで、私をいじめた人々をゆるすことができました。イエスの十字架を知ったとき、私の心の傷はその愛で洗われ、心の激痛が取り除かれたのです。

イエスの視点

イエスはあなたを無条件で愛しています。あなたの存在は、無条件で受け入れられているのです。その根拠は「あなたがどれだけきよい生き方をしてきたか」ではないのです。また「どれだけ多くの友だちがいるのか」でもありません。「何を所有しているのか」も関係ありません。

「人があなたをどう評価しているのか」も関係ありません。「あなたがどれだけの能力があり、仕事ができるのか」も問題ではありません。

あなたは無条件に愛されています。あなたのありのままの姿を、イエスは知っています。それでも、イエスはあなたを愛しているのです。

人の評価は限定的です。人はあなたの一面しか見ていません。あなたの行動の動機や、本当の理由を、人は完全には理解できないのです。相手の自分勝手な評価に振り回されないでください。あなたを造り、あなたを愛する神の視点を自分のものとしてください。

神の視点は、このようなものです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」※4

神の評価を知ったとき…

私は、私のありのままを愛する、神の愛を見い出しました。私のくせ、特徴、興味、考え、夢、そして才能……。それらすべてを、神がご存じです。それでも神は、あなたを大切な存在だと思っています。神は「私の道のすべてを知り抜いておられます」※5。

私がどのような存在で、どれだけ神に愛されているのかを知りました。神の絶対的な視点を知ったとき、私は心の安らぎを感じました。もう人の目など気にする必要はないのです。人の視点は限られたものです。すべてを知らずに、自分勝手に判断しているのに過ぎないからです。

しかし神は違います。神が宇宙万物を創造しました。神は私に関するすべてのことをご存じです。この神が、私についてどう思っているのかを知ったとき、人からの評価は関係なくなりました。

もはや、人を恨むこともなくなりました。人を恐れる必要もなくなりました。また弱い自分を憎み、自分を傷つけることもなくなりました。なぜなら私には、どんなときにも味方となってくれる、最強のボディ・ガードがいるからです。

どんなときも見捨てない神

旧約聖書 創世記16章には、エジプト人の女奴隷ハガルが、その女主人のサライにいじめられ、家を飛び出す出来事が出てきます。砂漠の道を進むハガルに、神が出会います。ハガルは神の語りかけに感動して、こう語ります。

「そこで、彼女は自分に語りかけた主の名を『あなたはエル・ロイ』と呼んだ。『私を見てくださる方のうしろ姿を見て、なおも私がここにいるとは』と言ったのである。」※6

ハガルは、神を「私を見てくださる方」だと語っています。神はあなたの今の状態に目をとめています。神は今も生きています。神はあなたを決して見捨てません。そして神は、あなたの心をその愛で回復させたいと願っています。

あなたが自分を取り戻すために、神はどんな犠牲をも惜しみません。神の力強い腕の守りに、あなたを導こうと、神は願っています。いじめの痛みや傷は、私にとって過去のものになりました。あなたにも、この自由を見つけてほしいと願っています。

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脚注: (1) マタイ18:21 (2) マタイ18:22 (3) イザヤ53:5,6 (4) イザヤ43:4 (5) 詩篇139:3 (6) 創世記16:13

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