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死後の世界はあるのか?

私たちは死んだら、どこに行くのでしょう。また死後の世界は本当に存在するのでしょうか。

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「人は死んだら、どこに行くのでしょうか?」

これまで多くの人が、この疑問に取り組んできました。「死」によって、人間の存在そのものが消滅してしまうのでしょうか。それとも「死」は、永遠という旅路への出発点なのでしょうか。あるいは、次の人生への中継点なのでしょうか。

本稿では、人は死んだらどうなるのか。「死後の世界」をご紹介します。私たち日本人が考える3つの死生観を取り上げます。その3つとは、以下の通りです。

① 死と同時に、肉体も霊もすべてが消滅する
②「あの世」に行き、一定期間のあと、生き返る
③「六道輪廻」で人は、生と死を繰り返す

そして最後に、聖書が語る「死後の世界」を紹介します。日本人の考える死生観とは、かなり違います。ご一緒に「死後の世界があるのか?」考えてみましょう。

すべてがおしまい?

「死んだら、すべてがおしまいだ。」心の奥底で、ふとこう考えます。鎌倉時代の禅僧、道元は「地獄、極楽みな方便」と語りました。地獄や極楽浄土を説くのは、人が正しく生きるための教育的方便に過ぎず、実際は「死んだら、すべてがおしまいだ」と、道元も考えたようです。

科学は、目で観察できる世界を取り扱います。肉体は目に見えます。しかし、たましいや霊は目には見えません。ましてや「死後の世界」は、科学では観察は不可能です。科学の物差しで測ると、確かに、死は肉体の消滅であり、肉体とともに、私たちの意識も消え去ります。遺体は火葬されて、朽ち果て、土に戻るだけです。

では科学では「死後の世界」を証明できないのでしょうか。アメリカの脳神経外科の医師、エベン・アレグザンダー氏は、興味深い証言をしています※1。2008年11月、アレグザンダー氏は細菌性髄膜炎で、昏睡状態に陥りました。生死の境で、アレグザンダー氏は臨死体験をします。7日目に意識が戻ったアレグザンダー氏は、自身のCT画像、MRT映像を見て、驚愕します。彼の大脳皮質は細菌で真っ白に膨れ上がり、静止状態でした。意識反応も見られません。この状況では、夢を見ることもできません。自身の臨死体験が、単に夢や幻を見たのではないことが、はっきりしたのです。

アレグザンダー氏は学会で発表。著書も出版※2。全米でベストセラーになりました。彼の臨死体験は「死後の世界」について、科学的調査の必要性を訴えています。

生まれ変わる

ある統計によると、日本人の43%が「人は死んだら、再び生まれ変われる」と考えています。神道では、人は死んだら「あの世」に行くと教えます。そして一定期間を経て、人として生まれ変わり、新しい人生を生きることができると、神道では考えます。

人が死んで行く「あの世」とは、今、私たちが住む「この世」の延長線上にある世界です。死んで「あの世」に行くと、先に死んだ家族のメンバーと一緒に暮らします。そして年に2度、正月とお盆に、「この世」の家族のもとに帰ってきます。「この世」に生きる私たちは、先祖を供養します。そのお礼で「あの世」の先祖が、私たちを守ってくれます。

「あの世」で一定期間を過した死者の霊は、再び赤ちゃんとして「この世」で生を受けます。それも、自分の家の子孫の一人に生まれ変わります。死んだ肉親に似た赤ちゃんが生まれると、「この子は、死んだおばあちゃんの生まれ変わりだ」と言うのは、そのためです。

人は生と死を繰り返します。しかし家族や家は変わらない、と神道は教えます。

前世?来世?

仏教も「輪廻」で、人は生と死を繰り返すと教えます。ただ仏教の場合は、死んで生まれ変わる先は、同じ家族ではありません。また必ずしも、人間に生まれ変わるとも限りません。「六道輪廻」とは、生まれ変わる先が6つのコースに分かれるという教えです※3。

仏教は「殺生」を罪だと考えます。「殺生」とは、人だけではなく、あらゆる動物、昆虫など、すべての生き物の命を奪ってはいけないという教えです。夏、外で蚊が寄ってきても、蚊を殺してはいけません。もしかすると、腕にとまる蚊が先祖の一人かもしれないからです。

「輪廻」は終わりがない「やり直し」の繰り返しです。しかも人生には苦しみが伴います。「六道輪廻」のどのコースで生まれても、生きることは苦しいのです。仏教では「輪廻」から解放されることを求めます。「輪廻」を卒業し、お釈迦さまが行った「浄土」で、永遠に安らぐことが最終目標です。「浄土」に行くため、この地上で我欲、執着心を捨て、お釈迦さまのように「悟り」に到達する必要があるのです。

仏教で人が死ぬと、通夜、葬儀、火葬。初七日、四十九日と法要が続きます。それは四十九日に、次の「輪廻先」が決まるからです。死者が少しでも良い「輪廻先」、願わくは「浄土」に行けるように、生きている私たちは供養をして助けるのです。

聖書が語る死とは?

では、聖書では「死」について、どう教えているのでしょうか。「三位一体」の神がこの全宇宙を創造しました。人も、神が創造したと聖書は語っています。神は、地の土から人の肉体を形造りました。そして、人の鼻に神の息を吹き入れます。すると、人は生けるものとなったのです。

人の死とは、肉体から「神の息」が取り去られることです。死とは、肉体とたましいが分離することなのです。聖書は死についてこう語ります。「土のちりは元あったように地に帰り、霊はこれを与えた神に帰る。」※4

霊が肉体から取り去られると、肉体は生命機能を失います。日本では通常、死から24時間を経って、火葬されます。遺骨の一部は骨壷に納め、墓に埋葬します。残りの灰は土に戻ります。それではたましいは、どこに行くのでしょうか。

聖書はこう語ります。「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように…」※5

たましいは「よみ」に行き、さばきの時を待ちます。この世界の終わりに、もう一度、肉体が与えられ、人は神の前に立ちます。そして、この地上で行った行動によって、さばきを受けます。ここで有罪になると、第二の死を経験します。

「また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物はもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。…いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。」※6 

ただ問題は、人はだれも自分の力や努力では、神の義の基準に到達することができないことです。聖書にはこうあります。「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。」※7

では天国に行くには?

聖書はこうも語ります。「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」※8

私たちは本来、罪のために、永遠のさばき(第二の死)を受けるべき存在でした。しかし私たちを救うため、神であるイエスが、今から2000年前に、人となって来てくれました。それは、私たちが受けるはずの罪の刑罰を、イエスが身代わりに背負うためでした。

イエスは拷問を受け、ムチ打たれ、十字架につけられました。手足が木製の十字架に釘打たれ、長い時間をかけて、みなの見ている前で処刑されました。最終的には大量出血と窒息で死に至るのが十字架刑です。イエスの十字架は、まさに私たちの罪の身代わりでした。

イエスは死んで3日目に、死からよみがえります。イエスの復活は、イエスが神であることを証明しています。そして、このイエスの十字架と復活を信じるなら、あなたも罪がゆるされます。永遠の刑罰から救われます。そして、永遠のいのちが与えられるのです。

イエスとともに十字架につけられた強盗に、イエスはこう語りました。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」※9

この強盗も十字架の上から、隣で十字架につけられるイエスを見ていました。イエスが十字架上で語ったことばも聞いたのです。イエスと出会ってわずかな時間でした。しかし十字架の上で、この強盗はイエスを信じたのです。彼の信仰のゆえに、イエスは「今日、わたしとともにパラダイスにいます」と彼に語ったのです※10。

イエスを信じる人が死ぬと「パラダイス」に行きます。パウロもこう語っています。「むしろ肉体を離れて、主のみもとに住む方がよいと思っています。」※11

「パラダイス」に、イエスもともに住んでいます。そして終わりのとき、信者のからだは、イエスが死者の中から復活したように、「栄光のからだ」でよみがえります。イエスを信じる人は、さばきにあうこともありません。

イエスはこう語ります。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」※12

イエスを信じる者は、すでにイエスが十字架でその罪の代価を完全に支払っています。イエスを信じた時点で、神が無罪判決を下しているのです。

パウロはこう語ります。「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」※13

イエスを信じる人は、やがて来る「新しい天、新しい地」で、永遠に神とともに生きるのです。

神との平和はありますか?

聖書では「死後の世界」があることを明確に語っています。しかし「死後の世界」について、聖書はあまり多くの分量を割いてはいません。むしろ、この世で、どう生きるべきなのか。どう「死」に向けて、準備するべきなのかを、聖書は強調します。

皆さんは「死」を迎える準備ができていますか。神との平和を持っていますか。生きることは「死につつある」ということです。ぜひ、イエスを信じてください。イエスを信じることが、「死」への最大の備えだからです。

 イエス・キリストとの個人的な関係を持つには
 質問や意見があります

脚注:(1) エベン・アレグザンダー医師(1953-)は脳神経外科の臨床医であり、医学部の教授を歴任。1997年に全米の各科で優秀な医師に贈られる「The Best Doctor of America」を受賞。2008年11月細菌性髄膜炎から昏睡状態に陥り、臨死体験をする。

(2) Eben Alexander III, “Proof of Heaven: A Neurosurgeon's Journey into the Afterlife” Simon & Schuster, 2012 邦訳はエベン・アレグザインダー著, 白川貴子訳『プルーフ・オブ・ヘブン 脳神経外科医が見た死後の世界』早川書房, 2018

(3) 「六道輪廻」の「六道」とは以下のものです。①地獄 ②餓鬼(がき)③畜生 ④修羅 ⑤人間 ⑥天界

(4) 伝道者12:7 (5) ヘブル9:27 (6) 黙示録20:12,15 (7) ローマ3:10,11 (8) ローマ6:23 (9) ルカ23:44 (10) ルカ23:43 (11) 2コリント5:7,8 (12) ヨハネ5:24 (13) ローマ5:1


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