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イエスは神か 偽善者か?

イエスは神なのでしょうか。単なる預言者か?偽善者か?キリスト教信仰の背後にある根拠を見ていきましょう。

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ポール E. リトル著

神が主導権をもって神ご自身を現さないかぎり、私たちは神の存在と神がどのような方かを、知ることはできません。

私たちは歴史全体を見渡し、神からの啓示の手がかりを見ていく必要があります。その中で、一つはっきりとした手がかりがあります。それは今から約2000年前に、イスラエルの寒村の牧舎で生まれたイエスのことです。今日でも世界中でイエスの誕生が祝われています。イエスの生涯が歴史を大きく変えたからです。

人々はイエスをどう見たのか

当時の人々はイエスをどう見たのでしょう。「一般の人々はイエスの教えを好意的に聞いていた」ようです。その理由を聖書はこう伝えています。「イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。」※1

しかし、それからまもなく、イエスは自分自身について衝撃的なことを話し始めます。自分が単に優れた教師や預言者ではないことを明らかにしたのです。イエスは「自分が神である」とはっきりと伝えました。イエスの教えの焦点も「自分が神である」ことに移りました。

イエスの教えはこの質問に集約されます。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」 ペテロはこう答えます。「あなたは生ける神の子キリストです。」※2 このペテロの答えに、イエスは驚きもせず、非難もしません。むしろペテロをほめたのです。

イエスはよく神を「わたしの父」と呼びました。これを聞いた人には大きな衝撃でした。聖書はこう記録しています。「そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。」※3

別の場面でイエスはこう語りました。「わたしと父とは一つです。」 それを聞いた宗教指導者たちは、イエスをその場で石打ちにしようとしました。イエスは「どの良いわざのために石打ちにするのか」と尋ねました。彼らはこう答えます。「あなたを石打ちにするのは良いわざのためではなく、冒瀆のためだ。あなたは人間でありながら、自分を神としているからだ。」※4

自分について語った証言

イエスは、神だけが持ち得る力をはっきりと表しました。ある時、イエスは脳卒中の後遺症で全身が麻痺した男性にこう語りました。「子よ。あなたの罪は赦された。」 するとその場にいた宗教指導者は即座に心の中で反論しました。「この人はなぜこのようなことを言うのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」 それに対して、イエスはこう語っています。「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」

イエスは続けてこう語ります。「しかし、人の子が地上で罪を赦す権威をもっていることを、あなたがたが知るために。」 そして病人の男性に「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」※5 男性は即座にいやされ、一同驚きにつつまれました。

イエスはこうも語っています。「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」※6 「わたしは世の光です。」※7 またイエスを信じる人はだれでも、永遠のいのちを与えると、イエスは何度も語りました。「わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」※8 「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。」※9

イエスの人生の最終局面、十字架前夜の裁判の席で、大祭司がイエスにこう質問しました。「おまえは、ほむべき方の子キリストなのか。」

「わたしが、それです」とイエスは答えます。「あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」 これを聞き、大祭司は最終判決を下すのです。「なぜこれ以上、証人が必要か。あなたがたは、神を冒瀆する言葉を聞いたのだ。」※10

イエスと父なる神との間には、非常に緊密な「つながり」があります。人がイエスに示す態度は、その人が神に対して示す態度と同じだと、イエスは語りました。イエスを知ることは、神を知ることになります。※11 イエスを見る人は、神を見ることになります。※12 イエスを信じる人は、神をも信じるのです。※13 イエスを受け入れる人は、神をも受け入れることになります。※14 イエスを憎む人は、神をも憎み※15、イエスを敬う人は、神をも敬うのです。※16

4つの選択肢

イエスは自分のことを神だと語りました。このイエスの主張から導き出せる可能性は四つです。それはイエスが単なる ①嘘つきであったか、②精神疾患があったのか、③単なる伝説の人であるのか、または ④本当に神であるか。このいずれかです。」これは「イエスは本当に真実を語っていたのか?」という質問でもあります。

①嘘つき
もしかするとイエスは「自分が神だ」と嘘をついたのかもしれません。自分は神ではないことは知っていたのに、自分の教えを権威づけるため、イエスは故意に聴衆をだましたのです。しかしこの論理には無理があります。イエスの神性を否定する人も、イエスは偉大な道徳教師だと考えます。もしイエスの教えの決定的な部分、イエス自身の自己認識に関して、イエスが故意に嘘をついたのなら、はたしてイエスは偉大な道徳家と言えるでしょうか。

②精神疾患
次の可能性、イエスに精神疾患があったという可能性はどうでしょう。イエスは嘘をついたのではありません。イエス自身が神でもないのに、神だと思い込んでいたのです。自分は神だと主張する人は、今日でも存在します。精神疾患をもつ人です。しかし、キリストの生涯を振り返ると、精神疾患からくる異常行動や不安定な姿は見当たりません。かえって究極的な精神的圧迫を受けた時も、イエスの精神状態は安定し、危機に対して最善な対処をしています。

③伝説の人
3つ目の可能性はどうでしょう。イエスは偉大な道徳教師だったという可能性です。「イエスは神だ」という主張は、イエス自身が語ったものではなく、3–4世紀の熱狂的な信者が勝手に付け加えたという説です。「イエスが神だ」という主張をイエス自身が聞いたなら、イエスはきっと衝撃を受け、直ちに否定したことだろうと考える立場です。

しかしこの説は論理的に破綻しています。近代の考古学的発見で、四福音書の著者はイエスと同時代の人で、イエスを目撃し、その話を直接聞き、従った人であることが明らかだからです。福音書の記載には、イエスの直接の目撃者しか知り得ない特定の事実や詳細な描写があるからです。

米国ジョンズ・ホプキンズ大学の教授で、著名な考古学者であったウィリアム・オルブライト博士※17 はこう語っています。「共観福音書がAD.70年以降に書かれたとする証拠は一つもない。」 マタイ、マルコ、ルカの「共観福音書」はAD.70年以前に、ヨハネの福音書もAD.90年代の終わりまでに書かれました。四福音書が比較的早期に書かれたからこそ、広く回覧され、大きな影響を与えたのです。

④イエスは神であった
イエスは嘘つきでもなく、精神疾患を患っていた訳でもありません。歴史的な証拠から捏造の可能性も考えられません。ならば、イエスが正直な心で「自分が神だ」と語ったというのが、一番妥当な結論です。

イエスが神という証拠は?

だれでも「自分は神だ」と主張はできます。確かに他にも「自分は神だ」と主張した人はいました。ある意味で、私も、あなたも神を自称することはできます。ただ「自分は神だと証明できるものがあるのか?」と直ちに問われるのです。私だったら、5分もかからず、自分の正体が明らかになります。あなたの場合は、もう少し時間がかかるかもしれません。

しかしナザレのイエスは違うのです。イエスにはその主張を裏付ける証拠があるからです。イエスは語ります。「たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです。」※18

イエスの道徳的特質

イエスの人生の道徳的な側面は「自分は神だ」というイエスの主張を裏付けるものです。イエスが歩んだ道徳的な生き様のゆえに、イエスは大胆にこう質問できたのです。「あなたがたのうちだれが、わたしに罪があると責めることができますか。」※19 イエスは時に、敵対者の批判に沈黙で対応しました。イエスの欠点を指摘する人々に、あえて反論しませんでした。

イエスが悪魔の誘惑を受ける場面は、聖書に出てきます。しかしイエスが自分の罪を告白する場面は出てきません。驚くべきことに、イエスの生涯で道徳的な失敗は、一つも見つけることができません。どの時代にも、聖人と呼ばれる人や宗教的な人はいます。しかし彼らも失敗するのです。

人は神に近づくほどに、自分自身の失敗や欠点、腐敗に気づくものです。人は明るい光に照らされるほど、自らの汚れに気がつくのです。

イエスの弟子たち、ペテロやヨハネも、またパウロも、幼い頃から「罪」について厳格に教えられてきました。驚くべきことに、そんな彼らも「イエスには罪がなかった」と語ったのです。「キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。」※20

イエスに死刑判決を下した総督ピラトでさえも、こう語っています。「あの人がどんな悪いことをしたのか。」 群衆の訴えを聞いた後で、ピラトはこう語ります。「この人の血について私には責任がない。おまえたちで始末するがよい。」

群衆は容赦なくイエスを「十字架につけろ」と要求します。イエスが自分を「神だ」と語ったことは、神への冒瀆だと考えたからです。そしてイエスの死刑の執行を助けたローマ軍の百人隊長さえも「この方は本当に神の子であった」※21 と語りました。

イエスの奇蹟 病人のいやし

イエスは、力とあわれみの心を継続的に表しました。イエスは足の不自由な人を歩けるようにしました。目が見えない人は見えるようになりました。病気の人はいやされました。

イエスは、生まれつき目が見えなかった男性の目を、見えるようにしました。彼は神殿の門前で、通りかかる人に施しを求めていたので、皆に知られた存在でした。

イエスが彼の目を治したことを知った宗教指導者は、彼を尋問しました。目が見えるようになった男性はこう答えます。「一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」

彼には、なぜ自分の目をいやしたイエスを宗教指導者たちが認めようとしないのか、理解できませんでした。「盲目で生まれた者の目を開けた人がいるなどと、昔から聞いたことがありません。」※22 彼にはいやしの証拠で十分だったのです。

自然界をも統治するイエス

イエスは、自然界をも統治する超自然的な力を現しました。イエスは突風で、荒れ狂うガリラヤ湖をしずめました。舟に乗る人たちは恐れに包まれ、互いに言いました。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろうか。」※23

イエスは、ある人の結婚式で水をワインに変えました。5つのパンと2匹の魚で、5,000人以上の大群衆を食べさせました。イエスは一人息子の死で悲しむ母親のために、息子を生き返らせました。

ラザロはイエスの昔からの友人でした。ラザロは死んで埋葬されて、4日が経っていました。しかしイエスは叫びます。「ラザロよ、出て来なさい。」 すると多くの目撃者の前でラザロは生き返りました。

イエスに敵対する人々も、この奇跡を否定することはできません。むしろ敵対者たちは、イエスを殺そうと決めたのです。「あの者をこのまま放っておけば、すべての人があの者を信じるようになる。」※24

イエスは本当に神なのか?

イエスが神であることの最大の証拠が、死からの復活です。イエスは生前、何度も自分の死について預言しました。イエスは具体的にどのように殺され、埋葬され、3日目によみがえるのかを予め伝えたのです。

確かに、復活は最大のテストでした。復活の預言が実現するかは、だれもがわかるものでした。復活が実際に起こるか、起こらないか。イエスが語ったことが本当だったのか、偽りなのか。二つに一つです。

イエスの復活は、イエスのことばが本当かどうかを、実証するものです。

「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」※25

「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」※26 イエスを信じる人には、「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます…。」※27

「人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる」※28 イエスはこう語ることで、自ら証拠を示したのです。

イエスはどのような人物なのか?

「言うことは簡単だ。だれでも口で主張することはできる。しかしナザレのイエスには…彼の主張を裏付ける確かな証拠があった。」

もしイエスが復活したのなら、イエスの約束のすべてが実現するのです。イエスの復活により、私たちの罪はゆるされ、永遠のいのちを与えられます。私たちのこの地上での人生を、イエスが導くようになるのです。私たちは、神がどのような方かを知るようになります。神と神の愛を人格的に知る道が開かれるのです。

もしイエスの復活がなかったら、キリスト教は目的を失います。聖書の確実性も、現実味も無くなるのです。すべてが偽りになります。イエスは単に死んでしまった人に過ぎなくなります。

ローマ時代、円形劇場で賛美歌を歌いながらライオンの餌食にされた殉教者たちは、愚かにもだまされた存在になります。現在、命がけで聖書のメッセージを外国の地に届ける宣教師たちも、惨めな存在に過ぎなくなってしまいます。

イエスは自分が神だと証明したのか?

ここでイエスの復活の証拠を見ていきましょう。
イエスが行なった数々の奇跡を見ると、イエスが十字架刑を免れることは容易だったはずです。しかしイエスは十字架から逃げませんでした。

イエスは逮捕前、こう語っています。「だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。」※29

イエスの逮捕の瞬間、弟子のペテロがイエスを守ろうと抵抗します。しかしイエスはペテロに語ります。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことができないと思うのですか。」※30 イエスは天においても、この地上でも、そのような力を持っていました。しかしイエスは喜んで死を選んだのです。

イエスの十字架と埋葬

イエスの死は、公の場での十字架による処刑でした。十字架刑は、ローマ帝国が何世紀も用いた拷問と処刑の方法でした。イエスの罪状は、自分を神と主張した「冒瀆罪」でした。しかしイエスによると、十字架は全人類の罪の刑罰でした。

イエスの背中は、先端に金属片、骨片がついた鞭で打たれました。茨で編まれた嘲笑の冠を被せられ、トゲが額に突き刺さりました。そしてエルサレムの城外の処刑場に連行されました。イエスの両手首と足首は釘打たれ、木製の十字架にはりつけにされ、最終的に息を引き取りました。イエスの死を確認するため、脇腹は槍で突き刺されました。

イエスの遺体は十字架から降ろされ、香料を浸した布で巻かれました。遺体は岩壁をくり貫いた墓に埋葬され、入口は巨大な石でふさがれました。

自分が死んで3日目に死からよみがえると、イエスは生前に語っていました。皆がイエスの予告を知っていたので、ローマ軍の兵士が墓に配置されました。墓の入口にはローマ帝国の封印が貼られました。しかしその3日目、墓は空になっていたのです。

3日目の朝、封印された墓の巨大な石が、脇に転がされていました。イエスのからだはありません。ただ、からだに巻いた布が空の墓に残っていただけです。

イエスに批判的な人も、イエスに従った人たちも、墓が空になり、イエスのからだが消えていたことを証言しています。

①弟子たちによる窃盗説
最初に伝えられた説明は、番兵たちが寝ている間に、イエスの弟子が遺体を盗んだと言うものでした。これには多少の説得力があります。しかしローマ軍の屈強な兵士が部隊ごと、任務中に眠りに落ちることがあり得るでしょうか。ローマ軍の規律では死刑に当たる違反です。

さらには、イエスの復活を目撃した弟子たちが全世界に出ていき、復活のメッセージを伝えました。弟子たちは各地で逮捕され、殉教の死を遂げています。だれも事実でもないことのために、自分の命すらなげうって、信仰を守ることがあり得るでしょうか。作り話のために、弟子たちが死ぬことはあり得ません。ある弟子は、死の直前まで、イエスの復活を証言したのです。

②宗教指導者による窃盗の可能性
当時のユダヤ教の宗教指導者たちが、イエスの遺体を持ち出した可能性はあるでしょうか。この説の可能性も低いと言えます。人々がイエスを信じないように、宗教指導者たちが首謀して、イエスを十字架につけたのです。

もし彼らの手に遺体があるなら、エルサレム中をイエスの死体とともに練り歩き、見せしめにしたはずです。イエスの死体を公表することで、黎明期のキリスト教を完全に根絶できたことでしょう。しかし宗教指導者はそうしませんでした。これは、彼らが遺体を持ち出したのではない雄弁な証拠です。

③誤認説
もう一つの可能性は、最初に墓に行き、遺体がないことを確認した女性たちが、墓を間違えたという説です。彼女たちは心の失意と悲しみと闘いつつ朝もやの中を歩く際、道を間違えたというものです。悲嘆に暮れた精神状態で、埋葬前の別の墓を見て、イエスが復活したという希望的想像が始まったとする説です。

しかしこの誤認説にも矛盾があります。もし単に女性たちが墓を間違えたのなら、のちに大祭司や反対者たちがイエスが葬られた本当の墓から死体を取り出し、公表すれば、キリスト教信仰を完全に否定できたはずです。

「だれも事実でもないことのために、自らの命すら投げ捨てて、信仰を守ることがあり得るでしょうか。作り話のために死ぬことはあり得ません。」

④失神説
もう一つの可能性は「失神説」です。イエスは十字架で、実際には死んでいなかったとする説です。イエスは死んだという報告は誤りでした。疲労と激痛、体内血液量の消失で、単に気絶していただけです。埋葬後、墓の冷気で、イエスは意識を取り戻したとするものです。

しかしこの説を主張する人々は、イエスの死を確証したローマ兵の証言を軽視しています。兵士たちが遺体の脇腹を槍で刺したとき、凝固した血液分と、分離した水分が吹き出しました。これは医学的な死を意味していました。

仮に、イエスが気絶した状態で、生きたまま埋葬されたとしましょう。3日目に湿気のこもった墓で、イエスは意識を取り戻します。3日間、食事も水も摂らず、十分な治療もされていません。

意識が戻ったとしても、体に巻かれた布を取り除く体力は残っていたでしょうか。墓の入口の石を動かす力はあったでしょうか。警備するローマ兵に打ち勝つ力が残っていたでしょうか。両腕、両足の釘の打ち傷で神経が破壊されています。何キロも歩くことができたでしょうか。この説はあり得ません。

しかし墓が空だったことだけで、弟子たちがイエスの復活を確信したのではないのです。

ただ墓が空だっただけではない…

イエスが復活し、今も生きる神であると、弟子たちが確信できた理由は、他にあります。復活したイエスが弟子たちの前に何度も現れ、食事をし、実際に話をしたからこそ、弟子たちはイエスの復活を確信できたのです。異なる場所で、異なる時間に、さまざまな人々が復活したイエスに出会っています。『ルカの福音書』の著者ルカは『使徒の働き』の中でこう書いています。

「イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた。」※31

⑤幻覚説
イエスの復活が単なる弟子たちの「幻覚」であったとして、片付けることはできません。その理由は、イエスが現れた場所がさまざまで、違うタイミングで、多様な人々と出会っているからです。幻覚は、本来存在しないものを「ある」と強く信じようとするときに起こります。

例えば、息子を亡くした母親がいたとします。彼女は、生前息子が毎日3時半に学校から帰ってきたことを覚えています。彼女は毎日3時半に玄関で待ち続けます。最後には息子が幻覚で見えるようになり、息子と会話を交わすようになります。現実世界との交信が途絶えてしまったのです。

ある人たちは、イエスの復活に関して、弟子たちの間でも同じことが起ったと考えます。しかし事実は反対です。本来復活なんてあり得ないと考える弟子たちの堅い意志を、復活のイエスは説明し、証明して、解きほぐしたのです。

イエスは神なのか?

四福音書ともに、イエスが「肉体」をもって、生き返ったことを記録しています。復活のイエスが弟子たちのもとを訪れたとき、ちょうど弟子の一人トマスがいませんでした。他の弟子たちがトマスに証言をしても、トマスには信じ難いことでした。

トマスは語ります。「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません。」

一週間後、復活のイエスは再び弟子たちのもとを訪ねます。今回はトマスもそこにいました。イエスはトマスに語ります。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

トマスはイエスに答えます。「私の主。私の神よ。」
イエスはトマスに語りかけます。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」※32

イエスからあなたへ

イエス・キリストは、私たちの人生に目的と方向性を与えます。イエスは語ります。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」※33

私たちは生きる目的もわからず、ちょうど暗闇の中を手探りで生きているようなものです。人生の向かうべき方向もわからず、暗中模索で前に進んでいます。ちょうど暗い部屋で、照明のスイッチを探すようなものです。初めての部屋で、暗闇の中、手探りでスイッチを探すのは不安を感じます。しかし照明が点灯したなら、安心するものです。

スイスの心理学者カール・ユングは晩年こう語っています。「この時代の中心的な精神疾患は、空虚さだ。」 私たちは、経験や関係、お金や名声、成功を幸福だと考えます。しかしそれらを得ても、まだ満足できないのです。私たちは神によって造られました。神のうちに、真の満足を見出すのです。

イエスは語ります。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」※34

あなたも今、神と親しい関係を始めることができます。この地上の人生で、あなたは神を人格的に知ることができるのです。この神との関係は、あなたが死んでも永遠に続きます。この聖書のことばは、私たちへの約束です。

「神は、実に、そのひとり子(イエス)をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」※35

イエスは、私たちの罪をその身に負って、十字架につきました。イエスは、私たちの罪の刑罰を代わりに受けることを、自ら選んだのです。イエスが十字架で死んだので、罪はもはや神と私たちとの「障壁」にはなりません。イエスは、十字架であなたの罪の代価を完全に支払ってくれました。だから、あなたは完全に罪からゆるされるのです。神との新たな関係を始めることができるのです。

イエスは言います。「見よ。わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」※36

今、イエス・キリストをあなたの人生に迎えることができます。どういう言葉で祈るのかが、大切なのではありません。イエスがあなたのために行った事実に、あなたがどう応答するのかが、大切です。次のように祈ってみてください。

「イエスさま、あなたを信じます。私の罪のために、十字架で死んでくださり、ありがとうございます。私の罪をゆるしてください。私の人生に来てください。あなたをもっと知りたいのです。あなたに従っていきたいのです。あなたが私の人生に来てくださり、感謝します。あなたとの新しい関係が、今、始まったと信じます。ありがとうございます。」

今、このイエスを信じる祈りをされたでしょうか。あなたがイエスをさらに知る、お手伝いができたらと、私たちは願っています。あなたの必要に応じて、あなたのペースで大丈夫です。以下のリンクをクリックしてみてください。

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Adapted from Know Why You Believe by Paul E. Little, published by Victor Books, copyright (c) 1988, SP Publications, Inc., Wheaton, IL 60187. Used by permission.

脚注: (1) マタイ7:29 (2) マタイ16:15-16 (3) ヨハネ5:18 (4) ヨハネ10:30,33 (5) マルコ2:5,7,8,9,10,11 (6) ヨハネ10:10 (7) ヨハネ8:12 (8) ヨハネ5:24 (9) ヨハネ10:28 (10) マルコ14:61-64 (11) ヨハネ8:19; 14:7 (12) ヨハネ12:45; 14:9 (13) ヨハネ12:44; 14:1 (14) マルコ9:37 (15) ヨハネ15:23 (16) ヨハネ5:23

(17) ウィリアム・オルブライト博士(William Foxwell Albright, 1891-1971)宣教師の子供としてチリで生まれる。アメリカで教育を受け、1936年からエルサレムのアメリカ東洋研究所で研究員。1929年よりジョンズ・ホプキンズ大学でセム語・考古学の教授を務める。左手に障害がある中で、生涯に1000点以上の著書、論文を発表する。邦訳があるもので、木田献一監修, 小野寺幸也訳『石器時代からキリスト教まで』日本キリスト教団出版局, 2013年がある。

(18) ヨハネ10:38 (19) ヨハネ8:46 (20) 1ペテロ2:22 (21) マタイ27:54 (22) ヨハネ9:25, 32 (23) マルコ4:41 (24) ヨハネ11:48 (25) ヨハネ14:6 (26) ヨハネ8:12 (27) ヨハネ10:28 (28) マルコ9:31 (29) ヨハネ10:18 (30) マタイ26:52,53 (31) 使徒1:3 (32) ヨハネ20:24-29 (33) ヨハネ8:12 (34) ヨハネ6:35 (35) ヨハネ3:16 (36) 黙示録3:20

参考文献:ジョシュ・マクドウェル著, 川端光生監修, 中村光弘訳『徹底検証キリスト教』第2巻, いのちのことば社 2014年

著者:ポール E. リトル(Paul E. Little)
25年間インターバシティー・クリスチャン・フェローシップ(IVCF)で奉仕。イリノイ州ディアフィールドにあるトリニティー神学校の伝道学の准教授を務めた。著書は“How to Give Away Your Faith”, “Know Why You Believe”など多数。邦訳された著書にポール・E・リトル著, 松代幸太郎訳『新・あなたは何を根拠に信じるのか』いのちのことば社 1988年がある。


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