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神の存在

宗教嫌いの私が…!?

無神論で、大の宗教嫌いだった私がクリスチャンになりました。その理由とは……

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マリリン・アダムソン

「神が存在するって、どうしてわかるんですか?」私はよくこう質問して、クリスチャンの友人を困らせたものです。

友人たちは、私の意図がわからなかったようです。あるいは、どう答えたらいいのかわかりませんでした。「まあ、そのうちわかるようになるわよ…。」多くの友だちがこう答えました。

「そのうち、わかるようになるって無責任なこと言わないで……」。私は、自分で納得できる答えを、友人が教えてくれると、はかない期待を寄せていたのです。

「皆、神を信じると言いながら、その根拠をだれも説明できない……。」結局、神は人間がつくり出した存在に過ぎない。世の中に神を信じる人がいることは認めるけど、私には神の存在など必要ない……。

何ヶ月も神について友人に質問しても、客観的な証拠が出てこないのです。私が下した結論とは……「神など存在しない」というものでした。

「神はいない」という信念をもって、何年も月日は流れました。私のこの信念は生涯、変わらないだろうと思っていました。

しかし、ある人との出会いがきっかけで、神の可能性について、再び考えるようになりました。彼女は思いやりがあり、親切で、とても聡明でした。「彼女のような人が、なぜ神を信じるのだろうか。」とても気になりました。

親友の信仰

彼女はいつも、神をまるで実在する親友のように話しました。神が自分を深く愛していると、彼女には確信がありました。

私も、彼女のことをよく知っていました。彼女は心配事があれば、神に祈って相談します。神がその心配事を解決してくれると信じていました。または、祈りがそのまま答えられなくても、神の配慮がそこにもあると、堅く信じていました。

彼女はいつも「神が祈りに答えてくれる」と話していました。1年間、彼女の祈りに、神が答える姿を、私は何度も見てきました。人生のさまざまな局面を経験する中で、彼女の信仰は揺らぎませんでした。

彼女の生き方や人への配慮に、私は憧れの心を持っていました。「彼女が信じる神ならば、私も信じてもいいかな」と思うようになりました。

同時に「自分の知性に反するものは信じることはできない」と信仰を受け付けない部分もありました。彼女の信仰は確かに良いものです。でもそれは、ただの良い考えに過ぎません。信仰は希望的観測に過ぎないのではないか。事実に基づかないものは、信じられないと考えていました。

自分なりの哲学探求

この期間、私は別のことも実行しました。数週間ごとに、哲学者を一人選び、彼らの哲学を学びました。ニーチェ、ヒューム、ドストエフスキー、サルトル、プラトン……。彼らから学んだ哲学を、日常生活で実践してみようとしました。論理的にも完璧で、実行可能な哲学はないか、探していたのです。

しかし残念ながら、どの哲学も重要な部分が欠けていました。論理的に整合性があっても、その哲学を実行するには現実的ではなかったのです。それでも哲学の中に答えはないかと、探し続けました。

では聖書は?

私なりの哲学探求プロジェクトと並行して、思いつく限りの神についての質問を、友人に投げかけました。神についての質問を書き出すだけで、夜遅くにまで掛かったこともしばしばでした。

このような1年が続きました。ある日、彼女は私に一冊の本を手渡しました※1。「神は存在するのか」「イエスは神なのか」「聖書は信頼できるのか」といった疑問に答える本でした。その本に書かれた証拠は、事実を語っていました。同時に読んでいて「信じなければならない」というような押し付けがましさも感じませんでした。

その本には、事実と論理の両面から、神が存在すると言える証拠が書かれていました。特に説得力があった内容は、水の性質についての描写と、太陽と地球の位置関係に関する章でした。水も、宇宙もあまりにも完璧に設計され、完全に組み合わされています。「この世界の背後には、絶対的存在など存在しない」という私の信仰が、いかに貧弱だったかを実感しました。

本を読み進める中で、私の人生を根底から覆すような事実に、次々と遭遇しました。今まで信じていたものが、まったく通用しないことがわかったのです。自信は完全になくなりました。

私は堅実な性格です。今まで、これほど信念が揺さぶられる経験をしたことはありませんでした。神のことを探求するのは、もう止めようとも思いました。

しかし、神という概念がどうしても、頭から離れません。「本当に神は実在するのか?」頭の中で、この疑問がいつも巡っていました。

ある夜、私は再び、友人を呼び出し、話しました。私が知りたい情報のすべてを、彼女が持っていると思ったからです。しかし正直、もう質問すべきことは出し切っていました。それでもまだ議論を続け、自分の無神論が正しいことを証明しようとしていました。

突然、友人は私に向かってこう言いました。「私には、あなたのことは決められないわ。…あなた自身が、決断する必要があるの。神はいつまでも待ってくれないのよ。」

決断のとき

彼女が言うことは正論でした。私はただ決断をするのを、渋っていただけでした。私は家に帰り、どちらにするか、決断することにしました。神を信じるか、それとも、もう二度と神について考えないのか、二つに一つです。もはや決断するのに疲れていました。考えることにも、疲れていました。

家に着き、3、4時間、これまで読んだ本や聞いた話のメモをすべて見直しました。そして、すべての事実を再度、評価しました。

そのときに私が納得した事実は、このサイト内の記事『神はいるのでしょうか』に掲載しました。人間の脳の処理能力のスピードと情報識別能力の高さ。700万色の色彩を識別し、150万ものメッセージを同時に処理する目が持つ能力。細胞の中にあるDNAは、30億もの化学物質の文字列が、まるでコンピューター・プログラムのように書き込まれていることも学びました。宇宙の成り立ちの神秘さも、神のわざと言わざるを得ません。

これらはみな、科学的な事実です。これらを単に哲学的な命題として、片付けることはできません。これほど精密で、複雑な相互依存関係をもつ生態系が、すべて偶然に生じたと言うのは非論理的だと思いました。

また、イエスに関する歴史的証拠や聖書の信憑性も検証しました。その結果「神は確かに存在する」という結論が、一番合理的だと思いました。神は無限で、人とは比べられないほどの偉大な知識を持つ方です。この神に関する事実は、もう否定できないほどでした。

同時に、もう一つの決断に迫られました。知的結論を受けて、私は一つ行動に移さなくてはならないことがありました。

私は実際に、神に祈る必要がありました。イエスに「私の人生をともに歩んでください」と願う祈りが必要でした。

数時間考えた後、私は神に向かって、こう語りかけました。「わかりました。神さま、あなたの勝ちです。どうぞ、私の人生に入ってきてください、あなたが望むように私を変えてください。」

神が神であるならば、神には私の人生を変える権利があると、合理的に信じることができたのです。

神にこう祈ったものの、私にはまだ神について多くの疑問がありました。私は信仰の最初の一歩を踏み出したばかりでした。自分が信じるこの神のことを、もっと知りたいと思っていました。

神はどのような方か?

「神は存在する」というのが、私の論理的な結論でした。私はまだ、神の存在をただ知的に認めたに過ぎませんでした。

神は、私の人生をどのように見ているのでしょうか。神が大切としているものは、何でしょうか。神は私に何を知ってほしいと願っているのでしょうか。

私は自分で、聖書を読んでみました。聖書には、神がどのような方で、私たち人間とどのような関係を持ちたいのかが書かれています。特に聖書では、神の愛について繰り返し語られています。そして、神は私を愛していると書かれていたのです。新鮮な驚きでした。

私は懐疑的な性格です。最初の1年は「本当にこの神を信じて良いのか?」「なぜこの私が神を信じているのか?」といつも自分に問いかけていました。

その度に、神が存在する5つの客観的な根拠を検討し直したものです。「太陽と地球の位置関係」「水」…… 神への信仰は、単なる感情ではなく、事実と根拠に基づくものだからです。

私にとって、信仰の根拠とは建築物の基礎部分のようなものです。事実と根拠が、私の信仰を支えています。

ちょうど瀬戸大橋を車で渡るようなものです。鳴子の渦潮の上を橋で渡るとき、あなたはどう感じますか。怖いですか。「大丈夫だろうか?」と心配になりますか。車が安全に洋上を移動できるのは、橋の構造躯体がしっかりとしたものだからです。いくら心の中で心配しても、感情は、橋の安全性には影響を及ぼしません。

同じように、神の実在に関する証拠が、私には重要です。神の存在を証明する証拠、論理的、歴史的、科学的根拠が信仰を持ち続ける上で、とても大切でした。根拠など必要ないという人も、確かにいます。しかし懐疑的な私には、希望的観測は必要ありません。神の存在を立証する証拠が重要でした。

神を示すさらなる証拠

イエスを信じて以来、もう何年も神との親しい関係が続いています。それでも「なぜ今、私は神を信じているのだろう」と疑問に思うことがあります。私がそれでも神を信じ続ける理由は、何なのでしょうか。

イエスを信じるまでは、私の疑問の中心は「はたして、神は存在するのか」でした。イエスを信じて、神との関係を始めたあと、さらに神の存在を確信する、数多くの証拠を見つけたのです。

1.語りかける神

私が疑問や不安を感じ、洞察を得たいと願うとき、神は聖書を通して、私に語りかけてくれます。神に信頼する人に、神はこのように語りかけます。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」※2

神はいつも聖書を通して語ります。聖書は、いつも私の質問にぴったりで、私が期待していた以上の答えを与えてくれます。例えば、こんな感じです。

ある日、1日の予定や締め切り、やるべき仕事で頭がいっぱいで、心配が心を支配していました。そんなとき、何から始めたら良いのでしょう。

そこで私は、紙とペンを取り出して、神に祈りました。「私に何をしてほしいのですか。神さま、教えてください。」神に優先順位を示してほしいと祈りました。「何から取り組んだらいいのか教えてください。」

その直後に、聖書を開くと、すぐにイエスの癒しの奇跡が目に飛び込んできました。目の見えない男性に「わたしに何をしてほしいのですか」と、イエスは尋ねます※3。

もう一度、このルカ18章を読み返しました。するとイエスは私にも、同じ質問しているように感じたのです。「わたしに何をしてほしいのですか。」

その後、頭にふと思い付いたことを、メモ帳に書き始めました。すると私が当初考えていたリストと、まったく違うリストができました。神からの「やるべきことリスト」が完成したのです。

神がいつもともにいます。神は配慮に満ちた方です。神は何でもできる方です。この神が、ご自分を頼りにしてほしいと、私たちに願っているのです。

私が神に質問するとき、神はいつも完璧な答えで、私たちに答えを与えます。私の祈りで語った質問に、神は聖書から答えます。

2.方向性を与える神

私たちが何か決断に迫られるとき、神は方向性を示します。だれと結婚するのか、どんな仕事に就くのか、神は私たちの決断を導きます。

もちろん「どのメーカーの歯磨き粉を買うべきか」「夕食で何を食べようか」など、日常のありふれた決断は、私たち自身の決断にゆだねられています。しかし、人生全体に影響を与える重大な決定や、私の人生を用いて成し遂げたい神の働きに関しては、神は特別な関心をもって方向性を示します。

就職活動に関しても、私は神に尋ねました。そのときの神の導きは明確でした。私はカルフォルニア州のある会社から内定をもらいました。大学のあるシカゴから、カリフォルニアに引越す必要がありました。

カルフォルニアでの住まいを探していました。ちょうどクリスマス休暇で、実家に帰省していました。ある晩、私は手帳の住所録を見て、今まで出会った友だちのことを考えていました。「カリフォルニアでルームシェアできるのは友人はいないか」考えていました。

すると、なぜかクリスティの名前が頭に浮かびました。彼女は去年卒業して、アイオワ州で働いていました。クリスティはルームメイトとして最適な友人でした。でも彼女はアイオワ州に住んでいます。この数カ月、クリスティと話す機会はありませんでした。そんなことを思い浮かべていると、電話が掛かってきました。その電話は、クリスティからだったのです。

「マリリン、あなた、カリフォルニアの会社に就職するって、本当?」驚きました。就職のことは、オハイオに住む友人にしか話していなかったはずです。

クリスティの次の発言にさらに驚きました。「私たち一緒に、カルフォルニアでルームシェアできない? 家具一式と調理道具、食器は私が持っていくわ。」 「はっ?」

クリスティも翌年から、カルフォルニアの同じ町に転勤の辞令を受け取ったところだったのです。神が、私たちの人生を導きます。

3.神が生きる意義を与える

私は「生きる意味は何か?」と探求してきました。「なぜ私がここにいるのか?」「何のために生きているのか?」「人生の大切な価値観とは何か?」「何のために今、努力をしているのか?」

これまでも、多くの哲学や宗教を学んできました。聖書は、神の視点を与えてくれます。聖書を読むと、人生のパズルのすべてのピースがしっかりとはまるのです。

今でも聖書を読んで「わからない」と感じることは多くあります。「聖書のすべてを完全に理解している」と言うつもりはまったくありません。

ただ、神が聖書で啓示する視点から人生を見ないと、人生で起こる出来事の意味は理解できません。聖書は人生の取扱説明書です。この世界を創造した神が、聖書を通して社会活動全体の仕組みを説明しているのです。そしてこの神が、日々私たちの日常を導いているのです。

4.神の関係の親密さ

神の愛は、人間同士の関係よりも深いものです。私は結婚して、二人の子どもがいます。親しい友だちもたくさんいます。

しかし人間同士の関係以上に、神の愛は完璧です。神は私たちの想像を越えるほど、親切です。神は「私がいるべき場所」へと導きます。日々、進むべき進路を導きます。神は、驚くべき方法で、人生に介入されます。神は、単なる信念や教義ではありません。神が私の人生に働く姿を見るのです。

5.人生をともに歩む神

神は、私にはできない大きなことを、私の人生で成し遂げてくれます。私の計画をはるかに超える大きな成果を、神は私の人生で成し遂げてくれるのです。私では考えられないようなアイデア、方向性、解決策、知恵や動機を、神は与えてくれました。

私の人生で体験した神の働きは、まだまだたくさんあります。ここではそのいくつかを、できるだけ正直に、ありのままをお伝えしました。

大の宗教嫌いで、神に懐疑的だった私が、どうして神を信じるようになったのか。信じるきっかけとなった証拠をご覧になりたい方は、これらの記事もご覧ください。

神はいるのでしょうか?
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神を信じるとは?

神を知ることは、価値あることです。神を知ることで、人生を理解することができます。喜びをもって人生を歩めます。人生に潜む「落とし穴」を避けることもできます。

神に導かれる人生を送ることができます。真理が何か知ることができます。人生に力と希望、平安が与えられます。

そして、神との関係を始めるができます。神はいつもあなたに真実で、いつもあなたを愛しています。私たちを創造した神は、私たちと友情を育みたいと願っています。

この人生を自信をもって生きるために、神とつながり、神に信頼を置いてください。神を知らければと、私たちの人生は常に何かを探し求めています。いろいろ可能性を試しながらも、いつも心には何か欠けを感じます。

神の招きに答えてください。神との関係を始めてください。そのとき、私たちは真の充足感を得ることができます。本来あるべき私たちの姿へと、神が私たちを変えてくれます。

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脚注: (1) Paul E. Little, Know Why You Believe, IVP Books, 1988. (2) 詩篇119:105 (3) ルカ18:41

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