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体験談

宗教二世 その葛藤

末日聖徒イエス・キリスト教会の両親のもとで育ったリサ。大学時代、彼女が体験した宗教的葛藤、心の旅路をご紹介します。

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リサ・ブロックマン

私とゲリーはお付き合いをしていました。私は当時、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)※1 の信者でした。本来、モルモン教の信者ではない男性と交際するべきではありませんでした。そして、クリスチャンであったゲリーも、モルモン教の私とデートをすることは、賢明ではないことを自覚していました。

だけど、二人の間にあった結びつきは、信仰心よりも強かったようです。私たちの信仰は、当時の私たち二人を引き離すほどの力はありませんでした。

私たちは二人ともアスリートで、大学の体育会の部活で活躍していました。信仰面では、教会に反発心を持っていました。何よりも、二人は互いに夢中でした。交際が始まって1ヶ月ほど経った頃、ゲリーが突然、私にこう質問しました。「僕らが信じる信仰は、本物なんだろうか?」

「なぜ信じられるのか?」

彼にこんな質問をされるなんて、予想外でした。しかし、私には答えがありました。「信仰に関して、私も祈ったことはあるわ。私が祈ったとき、胸が熱くなる体験をしたことがあるの。その感動を体験したとき、私が信じている神は生きているって、思った。」

ゲリーはさらに尋ねます。「それって、感情的な体験だろ。なぜ一時的な感情で、自分の人生をすべて委ねることができるんだ?」

リサ・ブロックマン
リサ・ブロックマン

私にはこの体験以外では、自分の信仰を証明する方法がわかりませんでした。心の奥の熱い情熱こそが、私が真理を知るための唯一の手法だったのです。ゲリーはさらにいくつかの質問を投げかけました。

「ジョセフ・スミスが本当に預言者だと言える証拠は何?」

「モルモン書が、神のことばと言える根拠は?」

「モルモン書は、歴史的に信頼できる書物なの?」

信仰への疑念

質問をされると、信仰について何も答えられない自分に気づきました。これまで私を支えてきた信仰的な基盤が突然、崩れ落ちていくことを感じました。私は本能的に、この会話から逃げ出そうとしました。

それからの一ヶ月、私はゲリーが投げかけた質問に悩まされました。モルモン教の教義に疑念を抱くことは、私の両親、私の教会、私の友だち関係への裏切りを意味しました。そして私がモルモン教の信仰から離れるということは、5世代に渡ってモルモン教信者である家族から切り離されることになるのです。

幼い頃、「私は天の父と天の母の子どもで、神性を授かって生まれている」とモルモン教会の日曜学校のクラスの先生から、教わりました。

モルモン教の聖殿で結婚するのに値する者となり、天国の三つの栄光の段階のうちで最も高い「日の栄えの王国」で、永遠のいのちを得ることができるように努力していました。

こうやって私も「神」となった夫とともに「神の妻」※2 として、霊的な子どもたちを生むこと……これこそが、私の理想の人生だったのです。

ゲリーと話す中で、聖書の死生観はかなり違うことに気がつきました。イエスを信じる人は、死んだ後、天国へと導かれます。この世界が更新されるとき、新しい「栄光のからだ」を受けますが、「神」になることはないとゲリーは言うのです。モルモン教との違いを意識しました。

教義と規則

モルモン教には、多くの決まりがありました。

例えば、暴言を吐かない。貞操を守る。知恵の言葉を守る。コーヒーと紅茶、お酒を飲まない。タバコも吸わない。収入の十分の一を献金としてささげる。日曜はモルモン教会に忠実に出席する。それ以外でも、青少年の活動への参加が求められました。そして何よりも、心をきよく保つことが大切です。このように、日々守るべき規則がたくさんあります。

高潔な生涯を送ることが前提条件で、その結果、聖霊との交わりを持つことができ、神殿での儀式に参加し、祝福を受けることができると教えられてきました ※3。「いつも、あらゆることに対して、どこででも」神に従うことが、祝福の基準だったのです。

私の内面では、高潔さに欠ける影の部分があることは、自分でもよく理解していました。しかしモルモン教の教えでは、人生に影が存在することすら認められないことでした。ただ「高潔」であることだけが求められたのです。

それでも、恥の意識がいつも私の内側に潜んでいました。いつか失敗をするのではないかという、恐れがありました。何よりも表面だけを繕う、偽善的な私が嫌いでした。

モルモン教の戒律を守らなければ……というプレッシャーが、常にありました。また戒律を守れなかったときの羞恥心は、成長するにつれて大きくなっていきました。また、守れない弱さを隠して、問題ないように振る舞っていました。

聖書自体を学ぶ

この葛藤はこの数年ずっと感じていました。あるとき、思い切ってもっと自分の気持ちに正直に生きようと決心しました。そんな気持ちから、ゲリーとの交際が始まったのです。

それでもいつか「自分の行いをきよめて」、モルモン神殿で同じ信仰をもつ男性と結婚したいと、心の奥底では願っていました。ゲリーとの交際の中で、必然的にお互いの宗教観に関して話すようになっていました。

信仰への疑問が深まるにつれて、ゲリーと一緒に聖書を学ぶことに同意しました。私は聖書に書かれた内容は、すべてモルモン教の教義を支持するものだと、愚直にも信じていました。結局のところ、私もクリスチャンだと思っていたのです。

けれども、ゲリーと初めて聖書の学んだとき、私の考えが間違いだったことに気づいたのです。私は不安になり、ゲリーとは信じる内容が全く違うことがわかりました。私はとても動揺しました。

聖書 対 モルモン書

ゲリーと聖書を学ぶことが続いていました。聖書を読む中で、決定的な矛盾点が明らかになってきました。例えば、神がだれで、どのような存在なのか。人とは何者なのか。永遠のいのちを得るにはどうすれば良いのか……。聖書とモルモン書の違いを見出す中で、さらなる不安と苦悩を抱えるようになりました。

聖書にある次のことばが心を揺さぶりました。「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」※4

私は憤りを覚えながら、ゲリーに質問しました。「神が霊だなんて、あり得るのかしら?」「神が霊だったら、神は目では見えないじゃない?」他のモルモン教徒が信じるように、私も神には骨肉があると信じていたからです。

聖書を学ぶたびに、ゲリーと私は臨戦状態でした。

ゲリーは聖書から、神は常に神として存在する全知全能の存在であることを説明してくれました。神は完全で、聖なる方、永遠に存在する神であることを、多くの聖書箇所から明確に証明しました。

ゲリーが示す聖書箇所を読むたびに、私は不条理に感じました。疑問とともに、生理的に受け入れられませんでした。

信仰探究の旅路

モルモン教では「神」は、もともとは人であり、その人の善行によって「神」へと昇華した存在でした。私もそのような「神」になりたいと願っていました。

モルモン教会の日曜学校の先生は、モルモンの預言者、ロレンゾ・スノウが作った「私が今、人間であるように、神はかつて人間であった。今、神が神であるように、人も将来、神になるかもしれない」というスローガンを教えてくれました※5。

もし私の信仰探究の旅路の終着駅が「モルモン書は真理ではない」となると、「背教者」とされるのでは……という恐れもありました。自分のコミュニティ、さらには家族からも排斥されるのではないか。死後も、殺人犯と同様に天国の「外の暗闇」へと送られる運命ではないかと思ったのです。

聖書とモルモン書の両方を読んでいく中で、私はこの二つの相反する教義の両方を信じることは不可能だとわかりました。私はどちらが真実なのかを、はっきりと決着をつけるときがくることがわかったのです。

考古学的証拠の有無

ゲリーとの議論を重ね、自分で調べる中で、いくつかの事実にも気がつきました。

モルモン書には、その内容を裏付ける考古学的証拠が存在しないことにも、気がつきました。モルモン書に出てくる人々や出来事、場所を裏づける歴史的証拠もありません。一方、聖書に出てくる場所や出来事については、考古学的に確実な証拠が遺跡から出土しています。

また私は、モルモン書のどこにイエスのことばが記載されているのか、疑問に思うようになりました。そして「アメリカ先住民がイスラエルから来た」というモルモン書の記載を裏づける遺伝的証拠も、歴史的証拠もないのでは……と考えるようになりました。

※聖書の考古学的証拠に関しては『なぜ聖書は信じられるのか?』をご覧ください。

イエスとはどのような存在?

同時に私は、イエスは自分についてどう主張しているのかを知りたいと思いました。イエスは自分が何者であると言及しているのでしょうか。

もしイエスがモルモン書が言うように「私の兄弟」ではないなら、イエスとはいったいどのような存在なのでしょう。もし「イエスの死が、私の罪の性質を自動的に神の性質に変える」ものでないならば、一体イエスの十字架の死は何を成し遂げたと言えるのでしょう。

聖書を読めば読むほど、イエスが神であることを明確になりました。イエスの神性は否定することのできない事実です。イエス自身がそう宣言しています。

※詳しくは『イエスは神だと本当に語ったのか?』をご覧ください。

罪の新たな認識

私とゲリーが聖書を探求し議論を重ねる中で、私は聖書が語ることを受け入れるようになっていました。人が持つ性質は「神の性質」ではなく、むしろ「罪の性質」であることに気がついたのです。

人には「原罪」があるという事実を知って、むしろ私は安心しました。私の内にも影の部分が存在することを知り、心から納得することができたからです。

私は少しづつ、神が私のことを愛していることを理解するようになりました。神は、ご自分との愛のある関係を持つために、私を創造したのです。

私は死後「神の妻」になるように、努力していました。しかし実際に私が求めるものは、人から認めれ、称賛されることだったのです。熱心にモルモン教の規則を守ろうとした動機も、自分の栄光を求める利己心からだったのです。

聖書はとても明快です。「私たちの救い主である神のいつくしみと人に対する愛が現れたとき、神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって……私たちを救ってくださいました。」※6

ゲリーはこの聖書箇所も示してくれました。「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」※7

神からの招き

イエスは私の罪のために、十字架で死んだことを信じるべきなのでしょうか。私はイエスのゆるし、救いの賜物(プレゼント)を受け入れ、イエスとの関係を始めるべきなのでしょうか。

イエスを信じるなら、神は私を決して見捨てることはないとあります。聖霊を通して、イエスはいつも私の心に内住すると、聖書は約束しています。神の御手に守られ、神の御国で生涯を楽しむことができるとも、聖書は語っています。

10ヶ月間の聖書の学習と探求の結果、私は聖書が示す神の存在こそが真実であるという結論に至りました。でも同時に、多くの恐れがありました。モルモン教を捨てると、家族との関係がどうなるのでしょうか。

私の理解には、限界にありました。神を信じたいと願いながら、神の性質に関してはまだ、当惑していたからです。

神が唯一の創造主であるとは理解できました。同時に神には、三つの人格があります。父なる神、子なるキリスト、そして聖霊なる神。この三つの神の人格が、関係において「ひとつ」であるというのが、聖書が語る「三位一体」の教義です。私には到底、受け入れ難い内容でした。

※詳しくはこちらの『三位一体とは何か?』をご覧ください。

私はこう祈りました。「神さま、どうか私の理解を助けてください。あなたを十分に信頼することができるように助けてください。」

新たな発見

すると、まるで幻を見るかのように、一つの光景を頭の中に思いうかびました。この頭の中の映像が、私の理解の扉を開いたのです。

聖書のヨハネの黙示録4章にあるように、私は天国の王座に座るイエスの姿を思いうかべました。父なる神と聖霊の臨在は、王座の前にいる大勢の人々を包んでいました。

すべての人々が王の前に頭を垂れて「聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全能者。昔おられ、今もおられ、やがて来られる方」と叫びながら礼拝しています※8。

正直に言うと私は「三位一体の神」を、今でもことばで十分に説明することができません。しかし私はこの頭の中の映像によって、人を超越した神の存在を感じました。そしてこの「三位一体の神」が、私との友情を切に望んでいるという現実を知り、驚かされました。

「聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全能者。昔おられ、今もおられ、やがて来られる方。」この神に、私は生涯で初めて、礼拝したいという心を抱いたのです。

神は変わらない方です。永遠に存在し、私たちとともにいるお方です。そして何よりも、神は愛の方なのです。

イエスを信じる決心

ベッドの上で、顔を伏しながら、私は自分の神に対する歪んだ認識を改めました。目から涙が溢れました。私は神を礼拝すると言いながら、実際には宗教的な自分の行動を礼拝していたに過ぎない事実に気がついたのです。

悲しみと喜びが入り混じった涙でした。同時に、口から祈りも出てきました。

「神さま、あなた以外に、神は存在しません。あなたは聖なる方です。私はそうではありません。私の罪をゆるしてください。私の生涯をともに歩んでください。あなたが愛であることを感謝します。あなたは誠実な方です。私を決して見捨てない方であることをを感謝します。イエスさまの名前で祈ります。」

この9ヶ月間、私とゲリーは、神について議論し、苦悩し、格闘してきました。そして今、ついにたましいに安らぎを得たのです。

神は私を無条件に愛しています。永遠のいのちが与えられました。私は「神に愛される者」という新しいアイデンティティが与えられたのです。

信仰の葛藤

しかし私にはまだ、私の罪の性質とクリスチャンとしての新しい人生との間で葛藤し、揺れ動く自分がいることに気がつきました。かつての自分の栄光や人からの称賛を求める人生から、神と人を愛する人生に変わる段階で、多くの葛藤を体験したのです。

神と出会い、神との関係が始まったにもかかわらず、これまでの習慣が私にしっかりとこびりついていることに気づきました。新しいいのちに生きるため、多くの葛藤がありました。

イエスを信じたあと、モルモン教の規則から解放されました。今までの束縛から解かれて、私は遊びを中心とした「今を楽しむ」大学生活を送るようになっていました。思い切って、快楽に没頭しようとしました。しかしいくら遊んでも、以前のような満足感はありませんでした。

どう自由を生きるか?

徹夜で遊んだ翌朝、私は今まで感じたことがない感覚がありました。自責と不満の感情が交錯していました。以前も「恥ずかしい」という感情はありました。でも、その朝に感じた感覚は、私には真の喜びを感じる別の生き方があるのに……という後悔でした。

それから1年あまり、大学生活を楽しみながら、この後悔を感じていました。いつか神も、こんな私に忍耐できなくなり、私を捨ててしまうのでは……と感じることもありました。

しかし聖書の約束が、私のささえとなっていました。「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」※9

まるで神が私の傍で、真理をささやいているかのようでした。「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」※10

神はそれでも、私を受け入れていることがわかりました。しかし自分を変える力や、自分に打ち勝つ力は、私にはないことも実感しました。

神以外に頼りたい気持ち

21歳の誕生日を迎えたとき、お酒を飲むようになりました。酔うために、ビール8杯とウィスキー4杯を飲みました。でも酔うことはできません。

いくらお酒を飲んでも、酔うことはできませんでした。はっきりした思考の中で、お酒に酔って、楽しめない自分に気がついたのです。まるで得ることができない満足を、追いかけているような感覚でした。

家に戻ったとき、私は神に泣きながら、祈りました。「私は何かに依存する生涯を続けたくないです。私自身には変わる力がありません。あなたが必要です。神さま、あなたと一緒にいることこそが、最高の幸せです。ただあなたとの関係だけに満足させてください。」

神だけに満足する

次の朝、ベッドで目覚めたとき、大きな変化が私の心に起こったことに気がつきました。私の生涯を縛っていた何かに依存しないと不安になる気持ちがなくなっていたのです。深い平安がありました。まるで神が私の心を新しいものに変えてくれたようでした。

規則を遵守する生き方から、解放されました。何かに依存する必要もなくなりました。ただすぐ近くに、神がいました。この神との関係だけで、十分なことに気がつきました。

この方は無条件に愛してくれます。私がどれだけ神以外のものから生きがいと満足を求めいたことでしょう。それでも、神は私たちを見捨てません。

イエスはご自分を信じる者たちに次のように語ります。「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」※11

※イエス・キリストに関しては『イエスは神か 偽善者か』をご覧ください。

いつも私たちとともにいる神、すべてを創造された神は、想像を越えた愛をもって私たちを愛しています。この神の愛を知り、私たちがイエスと関係を持つように、神は招いています。

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【著者紹介】リサ・ブロックマン(Lisa Brockman)はユタ大学を卒業。モルモン教の家庭で育ったリサは、大学時代にイエス・キリストに出会う。大学時代から文芸創作活動を行い、文書で聖書が語る福音を伝えようとしている。Cru. (キャンパス・クルセード・フォー・クライスト)の宣教スタッフとして30年間、大学生に福音を伝えた。現在は芸術家の集まりをフロリダ州オーランドで主催。メンターとしてクリスチャンの信仰の成長を助けている。リサの代表的な著書は "Out of Zion: Meeting Jesus in the Shadow of the Mormon Temple" で、本稿も同書の一部を再編集したものである。

脚注: (1) モルモン教は、正式には「末日聖徒イエス・キリスト教会」と呼ぶ。1830年アメリカ人の宗教家ジョセフ・スミス(1805-1844年)によって創設された。聖書に加えて「モルモン書」を聖典とし、「三位一体」を否定する。本部はアメリカ・ユタ州のソルトレイクにある。

(2)モルモン教では地上でモルモン書の規定による生活を送ると、死んだ後、天国で「神」になるとされている。 モルモン教の表現では女性が「神となった夫の妻」、また「女祭司」とされるとしている。モルモン教では人は死後、神性を持つという点で、聖書の教えとは全く異なる。

(3) “Virtue,” The Church of Jesus Christ of Latter-day Saints, accessed January 30, 2019, https://lds.org/young-women/personal-progress/virtue.
(4) ヨハネ4:24
(5) churchofjesuschrist.org/study/manual/gospel-topics-essays/becoming-like-god
(6) テトス3:4–5
(7) エペソ2:8–9
(8) 黙示録4:8
(9) ヘブル13:5
(10) ローマ8:1
(11) ヨハネ8:32

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『モルモン教 違いは?』
『カルト 違いは?』
『異端とは何ですか?』

聖書:新改訳聖書2017©️2017新日本聖書刊行会


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